綱吉から、金魚へ。柳澤家が大和郡山に来た話

今日は、いつもと少し毛色の違う話です。
実は私、徳川綱吉が好きなんです。
「生類憐みの令の将軍」というイメージが強いかもしれませんが、学問を大切にした将軍でもありました。その綱吉から一本の糸をたどっていくと、ここ大和郡山の金魚にたどり着きます。
綱吉が信頼した、柳澤吉保
綱吉のそばで仕えたのが、柳澤吉保(よしやす)です。側用人として重く用いられ、のちには大老格にまでなった人物です。
吉保は綱吉の影響を受けて学問に打ち込み、藩の中に学びの場もつくりました。
その吉保と、息子の吉里(よしさと)が治めていたのが、甲斐の国。いまの山梨県、甲府です。
1724年、5,286人の大移動
享保9年(1724年)、吉里は突然、大和郡山への国替えを命じられます。
市の記録によると、その年の5月7日、男女5,286人と馬83頭の長い行列が甲府の町を出発し、10泊から12泊をかけて郡山にたどり着いたそうです。
家族そろっての移動は許されず、離ればなれになった家もあったといいます。
想像すると、なかなか胸に来る光景です。
その引っ越しに、金魚がいた
大和郡山の金魚は、このお引っ越しのときに始まったとされています。
誰がどんなふうに運んできたのかは、家臣が持ってきたという話など諸説あって、そこがまた想像をかき立てます。
その後、金魚づくりは幕末には藩士の副業として、明治維新のあとは職を失った藩士や農家の副業として広がっていきました。最後の藩主・柳澤保申(やすのぶ)が、金魚づくりを惜しみなく支えたことも大きかったそうです。
城跡の本丸に、柳澤神社
郡山城跡の本丸跡には、柳澤神社があります。明治13年(1880年)に藩士たちが建てた神社で、祀られているのは、綱吉の側用人だった吉保です。
綱吉が大切にした学問は、吉保から吉里へ、そして代々の藩主へと受け継がれました。最後の藩主・保申は、いまの郡山高校の創立にも力を尽くしています。
綱吉から始まった糸が、学びの伝統と、金魚と、神社になって、いまもこの町に残っている。そう思うと、城跡を歩くのが少し楽しくなります。
300年たっても、つながっている
2年前の2024年は、吉里が郡山に入ってから、ちょうど300年の節目でした。
そして、あの大行列が出発した甲府市と大和郡山市は、平成4年(1992年)から姉妹都市です。300年前の引っ越しが、いまも二つの町をつないでいます。
仕事の話は、今日はお休みです。金魚のまちの小さな会社として、こういう話もときどき書いていきます。
Cometのことは、会社案内にまとめています。