筒井順慶と郡山城のこと

9月に、柳澤家と金魚の話を書きました。郡山城といえば、柳澤家や豊臣秀長の名前を思い浮かべる方が多いと思います。
でも、この城を最初に築いたのは、筒井順慶という大和の武将です。今日は、その順慶と郡山城の始まりの話です。
2歳で家を継いだ、大和の武将
筒井順慶は、天文18年(1549)の生まれ。いまの大和郡山市筒井町にあった筒井城を本拠にした、筒井家の跡取りです。
父の順昭が早くに亡くなり、順慶はわずか2歳で家を継いだとされています。若いころは松永久秀と大和の支配を争い、筒井城を追われたこともありました。
その後、織田信長の後押しを得て、天正8年(1580)に大和の国を任され、郡山城に入ります。これが、郡山城の始まりです。
郡山城は、順慶から始まった
順慶は、城づくりと城下町の整備に取りかかりました。奈良県の紹介によると、廃城になった多聞山城から大きな石を運び、奈良じゅうの大工を集めて工事を進めたそうです。明智光秀も工事の見回りに来ていた、と言われています。
天正11年(1583)には天守が完成します。ところが翌年、順慶は36歳の若さで亡くなりました。
その後、郡山城には豊臣秀吉の弟・秀長が入り、本格的な城に整えられていきます。そして享保9年(1724)からは柳澤家が明治まで治めました。金魚の話は、この続きにあたります。
「洞ヶ峠」は、どうやら濡れ衣
順慶と聞くと、「洞ヶ峠を決め込む」という言葉を思い出す方もいるかもしれません。本能寺の変のあと、明智光秀と羽柴秀吉のどちらにつくか、洞ヶ峠で戦況をうかがっていた、という話です。
でもこの話は、江戸時代の読み物などで広まったもの。実際の順慶は洞ヶ峠に出陣せず、郡山城にとどまっていたというのが近年の見方です。洞ヶ峠のある大阪府枚方市も「史実ではない」と紹介しています。
地元の武将としては、少し名誉を回復してあげたいところです。
もう一つの言葉、「元の木阿弥」
筒井家にまつわる言葉は、もう一つあります。「元の木阿弥」です。
父・順昭が亡くなったとき、順慶はまだ幼かった。そこで死を隠すために、声の似た木阿弥という男を身代わりに寝かせ、順慶が成長して喪を明かすと、木阿弥はもとの身分に戻った——。そんな言い伝えが、この言葉の由来の一つとされています(由来には諸説あります)。
順慶をたずねるなら
郡山城跡の天守台には展望施設があり、若草山から三輪山までの山並みを見渡せます。石垣に逆さに積まれた「さかさ地蔵」も見どころです。
順慶のお墓は、近鉄平端駅の近くにある筒井順慶歴史公園の「五輪塔覆堂」で、国の重要文化財になっています。
本拠だった筒井城跡では、毎年「順慶まつり」が開かれています。今年は10月18日(日)に、武者行列などが予定されているそうです(2026年10月時点の情報です)。
このコラムを書いているCometも、大和郡山の会社です(会社概要)。お城を歩いたついでに、まちの歴史を一つ持ち帰ってもらえたらうれしいです。